ブックタイトル広報はくば12月号
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広報はくば12月号
1111月15日。僕はもう一度『松川猿倉北股上流砂防堰堤』を見るため作業道路沿いにある狭小な展望地に立った。その週末、白馬三山から舞い降りた最初の雪は山麓を無垢な銀色の里に衣替えさせ、白馬岳線は予定より10日早い冬季閉鎖を迎えた。偶然!? それとも砂防からの招待!? いずれにせよ僕は幸運だった。白馬村で暮らすまで僕は砂防堰堤という施設に興味を持つことはなかった。登山や沢登りなど山行時、幾度となく通り過ぎたはずなのに。人間の出会いや意識の芽生えはいつも突然に訪れる。数ヶ月前、猿倉駐車場から白馬尻まで続く作業・登山道の視察に同行した際、道脇から下り松川清流から仰ぎ見た『松川猿倉北股上流砂防堰堤』の姿に僕は完全に魅せられた。それは太古からその場に鎮座する守り神のようでもあった。人工構造物のはずなのに神が宿る畏怖の対象。山岳信仰を想像させるような存在性。以来、僕は村内に建立された各種形式の砂防堰堤を拝観するようになった。『日本砂防史』(全国治水砂防協会/ 石崎書店)によると砂防の始まりは806 年とされている。主要都市への人工密集による過度な山林伐採の影響で異常なまでの土砂流出災害が発生したと記されている。江戸時代以前の砂防建設は人命・財産を守る防災という概念ではなく、むしろ山林保護が主な目的だったらしい。それにしても奈良~平安時代、すでに現代日本と同様の乱開発が起きていたことに驚く。砂防の歴史は文明発達& 人間の欲望との共存と闘いの歴史なのかもしれない。さて我が白馬村は糸魚川―静岡構造線を基盤とする脆弱な地質構造の上に営みがある。この自然環境は降雨時には土砂流出を発生させ典型的扇状地を形成した。ゆえに過去の集中豪雨では甚大な自然災害を引き起こしてきた。しかし松川流路工の整備・完成は平成7 年の梅雨前線豪雨時にも家屋被災0 戸。また平川流路工は左右両岸に別荘地を中心とする約2000 区画もの開発を実現した。その別荘地に住み、松川で犬と遊び、平川左岸を走り、積雪期にはまた犬と遊ぶ。僕は砂防の恩恵を享受し日々生活している。と意識すると砂防への興味はさらに深まる。砂防堰堤はその流域で暮らす人々の命、生活を守る施設だ。最先端最高水準の土木技術と人力が投入された文明の記録でもある。そこに意識を向けると途轍もないパワーを感じずにはいられない。最近、国土そして白馬村の礎となったこれら土木構造物に対する関心が高まりを見せている。我が村を訪れるゲストたちは白馬の大自然を愛する人たちだ。だからこそ…… 悠久の自然に畏敬や時に畏怖を想うことができる人たちにとって、村内に鎮守する砂防堰堤はそこに鎮座する白馬の山々と同様に、もはや奇跡の自然の一部と化し認知されているだろう。突然の大雪が解け始めた11月最後の日曜日。僕は『平川源太郎砂防堰堤』左岸まで走った。村道から少し上がった場所、下流に広がる村を見守るように一基の石碑が建っている。そこには〝はじめに砂防ありき〟第三代白馬村長・横沢裕氏の言葉が記されていた。僕は思った。「白馬に砂防あり」と。(集落支援員/佐藤一石)白馬に砂防あり白馬耳目Vol.6