白馬村・青鬼集落の歴史

縄文時代前期末、白馬岳から産出される滑石で装飾用の玉類が作られたり、白馬岳周辺の蛇紋岩が石斧の材料として使用されたりしていました。弥生時代以降になると神城地区の湿地帯を取りまく段丘上に米作りの集落群が起こり、古墳時代に入ると支配者たちが墳墓を築いたことから、神城地区には20基を越す古墳が確認されています。

また、白馬村は姫川で新潟県糸魚川市と通じ、白馬山麓から産出されるヒスイが縄文時代から古墳時代までこの谷から運ばれました。後年「千国道」と呼ばれる街道は、遥かな縄文時代にその姿を現し始めていました。青鬼集落の周辺にも、縄文時代中期~後期の善鬼堂遺跡・番場遺跡があり、古くから人々の生活の場であったことが知られています。

今から800年ほど前は、白馬村周辺は千国庄と呼ばれ六条院領でした。
戦国時代の四ヶ庄は、前期六条院領でしたが、実際の支配者は土地の豪族仁科氏の枝族で三日市場に居住する沢渡氏でした。

慶長19年(1614年)に松本藩により大がかりな地検が行われ、この時石高が示された村は、佐野、沢渡、飯田、飯森、桐山、蕨平、塩島の7村のみでした。その後、慶安元年(1648年)から承応年間にかけ、細野、大出、野平、峰方、深沢、空峠の各村が新田村として独立を認められ、漸次現在の地区形態ができることとなりました。
その頃の青鬼は、松本藩大町組塩島村の枝郷でした。塩の運送に使われた塩の道千国街道の千国宿から分かれた善光寺・戸隠道は、青鬼を通り、柄山峠を越えて、鬼無里村を経由し戸隠神社・善光寺に向かっていました。

万延・文久年間(1860~63)には、当時の青鬼集落24戸によって用水路である「青鬼上堰」(延長約3km)開削という大土木工事が行われ、青鬼集落の周辺に現在の棚田状の水田が開かれるようになり、棚田の石垣もその頃までには築かれたと考えられています。
青鬼下堰は、明確な年代はわからないものの青鬼上堰が完成して間もなく造られたものと考えられ、青鬼上堰と平行する形で約30m下側に設けられています。

青鬼地区では、明治40年(1907年)に集落の中央部にある9戸を焼失する大火がありましたが、直後に焼失家屋それぞれが伝統的な茅葺きの主屋を再建し、集落全体の景観に大きな変化はありませんでした。

江戸時代、信濃(長野県)側から容易に近づけなかった白馬岳に、明治26年にはウエストン氏が、同31年には河野零蔵氏等が学術研究のために登山し、高山植物の宝庫として全国にその名が知られるようになりました。同40年には山小屋も設けられ、白馬の観光の基礎となりました。その頃の白馬村の産業は、水稲、養蚕、麻を中心とする純農村で、一雨降れば荒れ狂う平川・松川に苦しみながら新田を起こし、人々は昔ながらの細々とした暮らしを続けていました。明治後期、日本に伝えられたスキーは、大正時代になると白馬山麓にも普及し、山岳スキー場として学生や山岳家に認められるようになりました。細野(現在の八方)集落は、昭和21年頃から民宿営業を始め、戦後スキーは大衆化していきましたが、スキー場にリフトがかけられたのは、昭和27年以降のことで、白馬村が誕生した昭和30年代こそ現代に至る白馬村の観光の革命時代でした。
その頃の青鬼集落は、周辺の集落と同様に近代化や産業構造の変化、人口の流出と過疎化が進み、幕末に24戸あった家も昭和60年代には15戸に減少しました。戸数の減少に伴い、かつての畑が杉林に変わるなど耕作地の形態には変化が生じてきましたが、景観の基本的な部分は近世以来の伝統的な状態を保っています。

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更新日:2023年05月08日