青鬼集落の民話

岩戸山のお善鬼さま

青鬼の岩戸山の上に善鬼の住んだという岩屋があって、椀貸伝説がある。

昔、青鬼の男衆達がこの岩屋を調べようというので、前日から村の善鬼堂にお篭りして特に潔斎し、食事も宮で煮炊きして山へ登ったことがある。

穴の入口はやや狭いが、入ると中は洞になっていて、方二間くらいの広さがあり、床は小石や砂利で平らになっていてまわりは岩壁で天井の高さは七尺ほどもあり、大昔は人でも住んでいたらしい所であった。なおその洞から横に通ずる狭い裂目があって、小柄な人が入って見たが、そこには前記の洞よりはまた狭い洞があり、さらに小さな裂目が奥に通じているのが見えたが、そこまでは窮めなかった。俗にこの穴は戸隠の裏山まで通じているとも言われている。

この岩屋の辺りには水がたまり落ちているが、それは三人行けば三人ほど、五人行けば五人ほど十分に飲む分量が出るという。山の上だが湿気があり水がある。

眺望は目の下に四ヶ庄平・西の岳を思うさまみることができる。岩の下の原には、しし岩・とさか岩というような巨岩があって、岩土の宝となっている。

また、穴から向こう側には黒味勝ちの切り立った岩があって、屏風岩、俗に「青きしし」と呼んでいる。この辺りまでは、村の人も昔は、草刈りに来たがめったに穴を覗くような事はしない。もし入ろうとしたら大荒れになるか、災害があると言われている。もしどうしても入ろうとする必要がある時には、七日間、浄化潔斎した後に、なすべきだと伝えられている。女は月のさわりのある時は無論遠慮すべきだと言っている。ある時、山へ青物を取りに行ったのか、子供をつれた老人がこの穴の辺りから原へ投げ飛ばされ気絶した事があったという。

昔は、ここに椀や膳を貸してくれる者がいた。近郷に大寄りができ、膳椀に不足した時は誰でも膳椀何人分といってこの穴の前でお願いする。後で行ってみると、お願いしただけの数が必ず揃えて岩の外においてあった。ところがある人が、はながさ(お椀の蓋)を一つ返さなかった。それきり貸さなくなってしまったという。

お善鬼様は明治三十年頃までは伝染病の神様として災厄除けに遠近から多くの信者が集まった。村の善鬼堂(青鬼神社)の長い石段は、そうした人々の寄進でできたものである。高遠辺りの人々の名前も刻まれてある。お善鬼様にお願いするには、赤い紙を刻んでお願いする。一枚古いものを貰っては二枚にして返す。古いものは、お守りにしたり、おん符としてのんだりした。

猟師の渋右衛門の話

昔、青鬼に渋右衛門という猟師があった。
身のたけは六尺に余り、ずいぶん力が強く、ある時松本の城下に江戸ずもうがあって、四ケ庄では大出から一人、青鬼からはこの渋右衛門が出たが、音に聞こえた大力の相手をぐっと抱きしめて、土俵の外へ出してしまったという。いつも一貫二百匁もある大鍬を振り振り大きな畑を耕していたという。
ひげだらけでそのうえ、ほうそうのあとがあり、すねの毛はさかさに生えていて四寸もあって、それを藁でくくれば、きゃはんがいらなかったといい、「青渋」とも「鬼渋」とも言われていた。幼い時から狩が好きで、一年中ほとんど山野をかけめぐっていたという。

ある時渋右衛門は、西山へ狩に行って白馬鑓ケ岳付近の二子岩の穴の中で泊ったことがある。奥の間では岩の主の餅をつく音がしていた。と、ガラガラと戸を開けて、「渋右衛門渋右衛門、この餅はここでいくら食べてもいいが下へ持って行くなよ」と巨人はとめたが、あまりにうまかったのでこっそり一つ懐に入れて山を下った。奥の駒返しの所まで来て足をふみ損ねて餅を落した。さがして見たがそこには石しかなかった。

岩の主はその時また、黄金の弾を二個くれた。その弾はなんでも好む所へ射てば必ず命中し、左手をのばしていると、再び手のひらに帰って来るという奇妙な弾だった。別れる時に岩の主は言った。
「渋右衛門渋右衛門、この弾が返って来ない時があったら猟師は止めにするがいいぞよ」

鬼渋がやはり西山で狩をしていた時のことであったが、夜になってふと見ると、岩の上に若い娘があんどんをすえて糸をとっている。
彼はねらいを定めて撃ったが、どうしてもあたらない。
女は鬼渋の方を見て笑うばかりである。何度やっても同じ事だった。
そこで最後にあんどんの火を目がけて射ったところが、「渋右衛門渋右衛門、えらい事をするな」という声がしたかと思ったら、ぱっとその姿は消えてしまった。
翌朝その辺を捜してみたら、こうのふけた野猿が、弾にあたって死んでいた。

これも西山へ狩にいった時の事であるが、急に夕立が来て谷川が増水した。
どうしても向こうへ渡れない。と、川上の方から黒い河木が流れて来てうまく向こう側へかかって、いい橋になった。二人はようやく渡った。
渡り終わってから彼は弟に向かって「これさ、さっきの橋はてめえは何と見たや」といった。
弟は「おらあ黒い大木だと思ったが」と答えた。
渋右衛門は「ふむ、そうだったのかな」といって嘆じて「お前、あれの正体を見極め得なかったとすると、これからは狩には連れて行くわけにはならんぞよ」といった。
その丸太と見えたのは、実は大きなうわばみだったともいい、しゃくとりだったともいう。それ以来二度と弟をつれては、西の岳へはいかなかったと言う。
いつもひとりで白馬山の奥深くの山々を狩でくらしたということである。

また、渋右衛門は、東山では戸隠の奥の方へも常に出かけた。
そこには上の淵と下の淵とがあって、上の淵は狭くて水もかわいているのに、下の方は青い波を立てて美しかった。
そのおのおのには主が住んでいた。

鬼渋がある日、下の池の近くへ行くと、そこへ立派な娘が現れて言うのに「渋右衛門よ、どうかおりいっての頼みだが、お前を見込んでのことだからどうか聞いてくれよ。長い間住みなれたこの池も、今夜こそ上の男竜に横領されてしまうのだ。ずっと前から上の主は私に池を渡せといって責めているのだ。いよいよ、今夜こそ言いのがれることはできない。お前が上手な猟師だという事も、黄金の弾丸を貰い受けていることも知っているから頼むが、今夜こそ滝を乗りきって、あの瀬を長々と火の玉のような眼をもった者がのぞき込むところを、ねらいを定めて撃ってくれ。一矢さえしとめてくれれば、あとは私が必ず勝つ。しかし、お前が手伝ってくれなければ、残念だが私は食い殺されてしまい、この池を取り上げられてしまう。」とのこと。
渋右衛門は引き受けて、夜になるのを待っていた。
やがて豪雨がやって来て、すさまじい勢で滝を乗り越えて来る大きな火の玉が見えだした。
ところが火縄が消えてしまって鉄砲を打つわけにはいかない。
すると火の玉が下の池に転び込み、下の池からは水煙が立ち、恐しい斗争が続いた。
夜が明けて見たら、池は血に染まり、女竜の死骸は大きな臼のようにいくつかに食いちぎられて浮かんでいた。
渋右衛門は、約束を果たせなかったということを死ぬまで残念がったという。

一説によると、この話は戸隠の裏山でなく白馬山の二子岩付近であり、その二つの池は今は欠損してしまったともいい、その岩の主と下の池の女竜とは相思の間柄であったというようにも伝えられ、二個の黄金の弾丸は一二個となり、男竜を打てなかったのは雨のせいでなく恐れたためだともいい、さらに黒菱の上に巨人が女性となって現われ、渋右衛門は、これを射ったが一二個の弾丸をその女にみんな受けとられてしまったのだとも言い伝えられている。
渋右衛門の持ったという南蛮鉄四尺二寸という法外の大きな銃・さすが(狩刀)・野やり、松本様から戴いたというものは今も個人や神社の宝物となって残っていてその所有は明らかである。

また、渋右衛門についてこんな話も伝えられている。
二子岩の主から黄金の弾丸を二つ貰う時に主はこう言った。
「お前はこの弾丸をもってお前の一番大切にしているものの生命をとれ」と、そしてもしそれをうてなかったら気の毒ながらお前の命は絶たれてしまうとの事であった。
渋右衛門は、自家に帰って来た。と見ると馬屋に自分の馬がいた。
これを射ってやろうと考えたが、「待てよ、馬はなるほど大切だが一番おれにとって大切かどうか、馬は金さえ出せばまた買うことができる。かけがえのない一番大切なものは馬じゃない。」そう思って家の中を見ると、そこには自分の妻が糸をとっている。
そこで渋右衛門は何と思ったかこれだと思った。
これこそ自分の一番大切なものだ、金でも買えない、かけがえのないものだとやにわに銃をもって黄金の弾丸を発射した。ところがそれは妻を射ちぬきなお向こうにあった長持ちをぶち抜いた。その長持ちの中には妻の間夫がひそんでいて、やはりその弾丸にあたって絶命したといわれている。

昭和45年8月20日 白馬村公民館発行「白馬のしるべ」より

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更新日:2023年05月08日